2013年9月7日土曜日

Film No Damage

元春&ダディ柴田
最高の掛け合いだ
公開が決まったときから、考えていたことは
「いつ行くか?」
「見ようか?」「見るまいか?」、その自問自答は存在しなかった。
「いつ」は公開初日が土曜日の出勤日だったから。
結局土曜の仕事は深夜まで掛かったので初日は行けず、翌日の日曜日に鑑賞に赴いた。
これは一人で。
翌週は二人で鑑賞。素直に誘えずに緩やかな変化球を投げて誘うあたりが自分らしい(褒め言葉ではない)

どちらも、私と同じような世代がいるし、上の世代の方もいらっしゃる。
夫婦で連れ立っている姿も見かけたし、男の子と二人で来ていたお父さん、素敵でした。

公開が決まったときから、考えていたことは、その2
観客が少なかったらどうしよう?
嗚呼、でもいっそのこと自分1人だけで鑑賞できるんだったら、それもいいよなぁ(恐ろしく自己中な思考)と。
今更、佐野元春の、しかも30年前のLIVE映像を鑑賞するために遠方からわざわざ出てくる人なんているのか?
いて欲しいけど。そういった自己矛盾めいたものを幾つも抱えながら公開日と鑑賞する日を待っていた。
いざ鑑賞に赴いてみれば、半数以上の座席が予約時点で埋まっており、劇場に入っている人数を
眺めれば、それは杞憂に過ぎなかった。

深夜の首都高速はクルマが少ない。
若者にはクルマが手に届かないシロモノだった証拠

赤いギターが綺麗
今ではもうボロボロになっているギター、ずっと使い続けている元春って素敵だな。

それぞれの人生を経て、今がある。
30年前の元春のLIVEを観て、30年前の自分に戻りたいと願うのか?
単に懐かしみたいのか?
それとも30年を振り返ってそして今からまた踏み出そうと考えるのか?
人それぞれの人生があるから、答えは「これでなければならない」ということもないし、元春だって「30年前の僕のLIVE、観てくれて嬉しいです、どうもありがとう」くらいしか言わない人だ。
Facebookで能地さんのインタビューに真摯に回答している元春だけど。
ちなみに僕自身はこれを観て、さぁ、もう一歩前に進もうと考えた。
ただ、がむしゃらに頑張ることが前に進むというわけでもなく。
今までと違う前の向き方があるんじゃないか?ぼんやりとだけど、そう思った。

1982年、僕はN県S市で親の目を盗んではゲームセンターでドンキーコングやパックマンに戯れていた。
ながら勉強をしながら流れてきた「グッドバイからはじめよう」
そこから、僕の元春への傾斜は始まった。
今にして思えば、自分で見つけて、自分の意思で聴きたいと願った最初のアーティストなんだろう。
僕が元春を見つけたとき、佐野元春はこの映画を撮影し、記録し、そしてニューヨークへ旅立つ。

このフィルムに映る佐野元春は、パワフルでエネルギッシュ、きっとこういうパフォーマンスは画期的だったのではなかろうか。
30年を経過した今ですら、これほどステージからほとばしってくる情熱を感じられるLIVEパフォーマンスは少なかろうと思えるもの。
そして元春のパフォーマンスはまるで言葉という言葉を直球ストレートで150km以上の剛速球で投げ込んでくるような勢いで迫ってくる。
観客は必死で打ち返すのに精一杯だし、中には打ち返せない人もいらっしゃったのだろう。
30年を経過した今のLIVEを体験している身としては、今の元春のスタイルはまるで絶妙なベルベットタッチのパスを供給してくれるミッドフィルダーのよう。
過去5年ほど、元春は第一級の都市だけでなく、所謂ローカルな都市でもLIVEを行なってくれたのだけれど、幾つもの会場で高齢者がLIVEに参戦している姿に驚く。
でも、今の元春だから70歳代のおばあちゃんだって参戦できる。
No Damageの頃なら、70歳のおばあちゃんは参戦することはかなり困難なことだろう

ああ、もし許されるなら。
劇場に訪れてきた人びとと会話してみたかった
「今日はどうしてこのfilmを?」
「今も元春聴いているんですか?」
「No Damageの頃、あなたはどこで何をしていたんですか?」
「これを観て何を感じました?」
色んな人々の元春との出会いや、ターニングポイントだとか、このフレーズをここで思い出した、とか。
多岐に亘って語り合ってみたい。
元春ファンは陰でひっそりしている人が多い(私もその1人なんだが)のだけれど、このfilmに関しては語り合える場があってもいいんじゃないか、と。

元春クラシックが元春NOWな頃のLIVE
初めて鑑賞できて、とても嬉しい。
音の響き方(例えばキーボードの鳴り方)なんてのはさすがに「ああ、80年代ーーー」なものもあるけれど、ここから90年、00年、そして10年と時代を経て今の元春クラシックが存在する。
そのLIVEに私自身、元春ともに生きて会えることに深く感謝しなければならない。
元春、いつもどうもありがとう。

元春がいつも元春クラシックをPLAYするのは80年代からずっと不変であり、それはきっと普遍なメッセージが込められているからなんだ。
言葉にすれば「喪失を経ての成長」ということなんだろうけど。
しっくりこないな。
普遍なメッセージは元春クラシックの歌詞の中にあり、ピアノの中にあり、元春のパフォーマンスにある。
そうとしか言いようがない。


二回鑑賞して、どちらも
足を踏み、手をだして、指をパチンと鳴らしながら、口ずさんだ。
そうせずにはいられなかった。

そしてそんな姿を元春は「嬉しいです、どうもありがとう」と言ってくれるに相違ない。
いえいえ、こちらこそ。

30年前のあなたを観れて、僕はとても幸せです。
30年前のあなたを観れて、僕は人生を考え直しております。
30年前のあなたを観れて、僕はこれからもあなたのファンであり続けます。

いつも、どうもありがとう!


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